「母からゆずられた前かけ」(宮川ひろ・著)より 文溪堂
「赤い足袋」
「正月さまあ、赤え足袋い持って、あっちの町からくるだいむし・・・・・・」
わたしは子どものころお正月をそんなふうに待っていました。山に囲れた貧しい村の正月は、いつの年だって、
はでなことはなかったけれど、「子どもに、赤い足袋ぐれえは買ってやらねえばさなあ」と、どこの親たちも、苦労してきばっていたのでした。
わたしがやっと、村の分校へ勤められられるようになったのは、昭和十七年です。この年の暮れにはじめてわずかばかりの、ボーナスをいただきました。このころ
母はすでになくて、ほかのきょうだいは、もうみんな家を出ていました。父とふたりだけの暮らしでしたから、ボーナスのふくろごと、誇らしそうに父の前にひろげて、
「自分のものは、みんな自分で買うから、なにも買ってくれなくっていいよ」
わたしは、父を安心させたくてそんなことをいったのでした。ところが、どんなによろこぶかと思った父の顔に、そのときふと、とてもさびしげなかげがうつったのです。わたしははっとしました。そしてとっさに、「そいでも、赤い足袋だけは、おとっつぁんに買ってもらわねば、正月がこなかんべえ」少しおどけて、ねだったのでした。「よっしゃ、そんなら上等の足袋をめっけて、いい正月をむかえてくるべえさ」その翌日、父はきげんよく正月の買物に町へ出かけていきました。そうはいっても、見つけて歩かなければ、足袋一足、なかなか手にはいりにくい時代になっていました。
明けた年の春にわたしは上京して東京の学校に勤めるようになりました。それからも正月は村へ帰ってむかえたわたしのために、父は自分の手で赤い足袋をつくって待っていてくれました。もう闇でも買えなくなったので、古い足袋をほどいて、きれいな針目でさして、縫ってくれたのです。父は、たいへん手先の器用な人でした。そんなお正月が二、三年あって、終戦の年の二十年に、父は亡くなりました。
そのとき、私は学童の集団疎開について、静岡にいました。悲しんでいる暇もなく、任地へもどらなければならなかったのです。昭和二十一年の正月は、焼け跡の東京で迎えました。なにもない正月でしたが、空襲の心配だけはありませんでした。赤い足袋をもらうことのない正月が、どれほどさびしかったかしれません。そのときはじめて、もう父はいないのだと思いました。
三学期がはじまって、職員室へ集まると、それぞれに自分の正月を語り合いました。
満員の汽車にしがみついて、田舎まで餅を食べにいってきた人。配給のさつまいもで、ちゃきんしぼりをつくったとか、どの人の話も、食べることばかりでした。そのときわたしは、ふと、赤い足袋のもらえない正月だったことを話したのです。
それから数日たって年輩の男の先生が、新聞紙に包んだものを、わたしの机の上へおいてくれたのです。開いてみたら、なんとそれは新しい赤い足袋ではありませんか。闇市へいけば、そんなものも手にはいりました。けれどそのころの教員の給料に比べて、足袋の値段はあまりにも高すぎました。
どれほどの思いで買ってくださったか。それなのに、わたしはその赤い足袋を、喜んでいただくことができなかったのです。それどころか腹だたしいような気さえして、そんな自分に、自分でおどろいていました。
父からもらう赤い足袋は、父と娘の心をつなぐ「あかし」のようなものだったのでしょうか。
それは、ほかのだれからもいただいたりしてはならないもののような気がしてわたしはあわてたのです。お返しするのも失礼だし、わたしはあまりお礼もいわずに、しまいこんだのでした。
すまないことをしたものだと、いまでもときどき思い出します。
あれからもう長い年月が過ぎました。父のいないさびしさはもうなくて、あのころのままに父はわたしの中に生きています。そして正月が近くなると、「赤い足袋ぐれえ、買えそうか」そういって、わたしの暮らし向きを気づかってくれるのです。赤い足袋の買えない正月ばかりが、何回めぐってきたことか。
そんなときでも、赤い足袋の思い出が、わたしの心をぬくめてはげましてくれるのです。
一九七六 ・ 二月
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