おはなしかご
 

エッセイ集

エッセイ集
「リヤカーの話」

 今から、もう三十年も前の事だが、その時の事はまるで昨日のことのようにはっきりと覚えている。

 私が四年生の時だった。その頃、父がいなかった私の家では、母がわずかな土地に野菜を栽培しそれをリヤカーで売り歩き、祖父母との一家四人の暮らしを支えていた。

 その日は思いがけず、売れ行きが良かったらしく、母は私への土産の赤いゴムのまりをリヤカーの柄にぶら下げて、珍しく鼻歌まじりで行商からもどってきた。
 そんな事は今まで一度もなかったので、私も嬉しくてたまらず、まりを受け取るとすぐについてみたり放りなげてみたりして、はしゃぐように家のまわりで遊び始めた。
 ところがそのうち、まりが石にぶつかり、ポ〜ンとはねて、川の方へ飛んでいってしまった。
 川に流されては大変だと慌てて、川べりを下りていったその時、右の足首をねじってしまった。
 まりはどうにか川には流されなくてすんだのだが、その夜、足首は腫れ、ひどく痛み始めた。
 私は母の顔が見られなかった。わずかな収入の中から私を喜ばせようと買ってきてくれたそのまりがもとでこんな事になってしまったことがなんだかすまなくて、はじめは足の痛みを必死に隠していた。
 だが、それはもう隠しようがないほどになりとうとう母に気づかれてしまった。母はすぐに私の足をみた。そして何を思ったのか・・・リヤカーに古い座布団を敷き、私を乗せると

 「病院さ行くべ」

と言った。
 今しがた行商から戻ったばかりである。かなり疲れているはずである。その上、夕食がすむとすぐに寸時を惜しんで、明日の行商の準備をしなければならない時間である。
 そんな事を思うと私はケガをした自分が情けなく、悪いことでもした様な気持ちでリヤカーの中で小さくなっていた。

 夕暮れの街には勤め帰りの人が行き交い、その人達の目がみな、母と私に注がれた。
 私はその恥ずかしさと同時に、改めてわが家の貧しさをはっきり突きつけられたような気持ちでたまらなかった。
 リヤカーをひいている母の姿がひどくみすぼらしく見えた。そんな気持ちで、野菜の匂いのするリヤカーのなかに顔を伏せてうずくまるようにしていた。

 しばらくするとリヤカーが止まった・・・・・顔を上げてみると、お寺さんの前だった。
 母は寺の中には入っていかず、そこに立ったまま、手を合わせしばらく祈っていた。
 そして深々と頭を下げると、またリヤカーをひき歩き始めた。そしてしばらくいくと今度は神社の前で立ち止まり、又しばらく祈り頭を下げると先に進んでいった。

 私は病院へゆく途中で寺や神社があったので、ついでに祈っているものとばかり思っていたのだが
 結局、その日は病院には行かず、町にあるすべての寺や神社 を次々と巡り、祈りひたすら頭を下げ続けた。
 時間からいって開いている病院がなかったのか・・・それとも、病院にかかるお金がなかったのか
 ・・・その時は知るすべはなかったが・・・
 その頃のわが家の状況を考えれば、なぜ?・・・は問うまでもなかった。

 毎日毎日、朝から晩までモンペ姿で頬かぶりをして泥だらけになって働く母は、子を抱き愛おしむ間など寸分もあろうはずがなかった。
 そんな母がわが子に断腸の思いでまりを買ってくれたのだ。
 その時の母の気持ちがどんなに晴れやかであったことか! そのまりに何もかもを托したのだ。
 ・・・・だが私は母のその思いをなんと言うこと受け取り方をしてしまったことか・・

 しかも それだけではなくその頃の私は、泥だらけになって働く母を友たちの母と比べて働く他に何の器量も持たぬつまらない人だ・・・と心の中で思っていたのだ。友の親たちが、ただただ羨ましくてならなかった。

 だが、その日の母はいつもとは全く別人であった。私が今まで一度も見たことのない母がそこにいた。
 わが子をリヤカーに乗せ、すがるような思いで、寺や神社を手当たりしだいに訪ねまわり、子の回復を必死に祈る母・・・・
 その姿に私はいつのまにか顔を上げ、祈る母を、深々と頭を下げる母をまっすぐに見つめてだしていた。
 ・・・心の中で「お母さん〜ありがとう!」と叫んでいた。心の中で母にしがみついていた。
 そして気がつくと・・・日頃、母のぬくもりを感じられずに、胸の中にたまっていた淋しさ悲しさや怒りの気持ちがいつのまにか消えていたのだ・・・
 母のその姿は、それらのすべてを消しうるに足る真の価値があったのだ。

 その夜・・私の心の奥で澱んだいた何もかもが掌(てのひら)に受けた小雪の様に消えていった。

 あの日の母の祈りは、あの夜、リヤカーの後をどこまでも追ってきてくれた夜空の星のように、
 今でもまぶしく私の心の中で光り輝いている。


 その後、私の人生にも様々なことが到来した。目の前が真っ暗になり、一歩も先に進めぬ事もあった。
 だがそんな時、必ず、暗い闇の底からあの日の母の姿が浮かんでくる。
リカヤーをひきながら必死に走っていた母の心の声が聞こえてくる。

 「その時できる精一杯をすればいいんだよ。ただただ夢中で必死にその時の精一杯を生きるんだよ」

と叫んでくれている。
 母がくれた財産がどれほどのものであったかを今痛いほど感じる。
            ・・・・ そして私が子等に遺すものが何かがはっきりとみえてくる。



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