おはなしかご
 

エッセイ集

エッセイ集
「2015年度いい話」

これから聞いていただくのは、ある人から聞いたのですが、深く心に残っている話です。
それはまだ戦争が終わって間もない頃の話です。その人はこんな風に話してくれました。

僕が中学生の時でした。その頃は誰も皆、戦後の貧しい暮らしだったので中学を卒業して高校へゆける人はまだ少なく、地方からも集団就職といって中学を卒業したばかりの大勢の少年達がたった一人で、親元を離れ、東京の様々な仕事場に、住み込みで働きに来ていた時代です。
僕のクラスもみな暮らしは貧しかったのですが、それでも朝起きると毎日、朝ご飯が食べられ学校に
通い、勉強をする事ができました。けれどもひとりだけ、それができない生徒がいました。
その子は安藤君(仮名)と言って僕の隣りの席の子でした。安藤君の家はお父さんが戦争から無事に
帰ってきたのですが、それから間もなく病気になり亡くなってしまったのです。
家は小さな工場だったのですが、お父さんが亡くなってからは人を雇う余裕はなく、お母さんと中学を出たばかりのお兄さんで、どうにかやってゆかねばなりませんでした。
それでも手は足りなく、安藤君も毎日、午前中は工場を手伝わなければなりませんでした。
ですから学校には午後からしか来れませんでした。いつも五時間目の途中でそーと教室に入ってくるのです。着替えている時間もないのか、油で汚れた服のままでした。
ですから勉強はどんどんおくれてゆくし、友達もできませんでした。

そんなある日の事でした。・・・国語の授業が終わりかけた時、先生が
「今日は先生に聞いてみたいと思っている事、どんな事でもいいから質問していいぞ」
とそう言ったのです。その先生は原口先生という先生でした。
その頃は日本は戦争に負けてしまったので、これからは強い国民を育てなければならない・・という
国の考えがあったのか先生達はとても厳しかったのです。
僕達は先生が恐くてたまりませんでした。教室ではみんな硬くなって緊張していました。
けれども原口先生は他の先生と少し違いました。
他の先生はいつも・しっかりしろとか、きちんとしろとか、がんばりが足りないとか・そんな言葉
ばかりでしたが、原口先生はそういう言葉はひとつも言いませんでした。
はじめて教室に来た時、先生がまず一番先に僕達に言ったのは
「授業中、便所に行きたくなったらいつでも行っていいぞ」・・という言葉でした。
みな驚きましたが、なんだか体の力が抜けて、ほっと安心した様な気持ちになりました。
安藤君に対しても他の先生とは違いました。
他の先生は安藤君がそーと教室に入ってくると、無視したり、迷惑そうな態度をするのです。
けれども原口先生は違いました。
必ず・・「お、安藤来たか!ごくろうさん。待ってたぞ」と嬉しそうに言うのです。
そんな先生が「今日はどんな事でも質問していいぞ」と言ったのですが、それでも国語の先生なのだ
から国語の質問じゃないといけない・・と思ったり「お前そんなことも知らないのか」と言われるかも
しれないし・・・へんなこと聞いてみんなにバカにされるのもいやだし・・・とそう思ったのか
質問をする者はひとりもいませんでした。みんな黙っていました。
先生は・・・「聞きたいことはないのか?どんなことでもいいんだぞ」・・と何度か言いました。
それでも誰の手も上がりませんでした。
ところがしばらくすると先生が「お!安藤 何か聞きたい事があるのか?」と言ったのです。
安藤君の手がほんの一瞬上がったのを見逃さなかったのです。
みな一斉に安藤君の方を見ました。そのとたん安藤君は顔を下に向け、黙ってしまいました。
先生は「安藤、聞いてくれよ。誰も何も質問してくれないと先生さびしいぞ」と言ったのです。
しばらくして、安藤君の顔が上がりました。そして、そーと立ち上がると小さい声でしたが
「先生」と言ったのです。すると先生は嬉しそうに「お!なんだ」と言いました。
その声はとても優しい声でした。すると安藤君は・・
「あの・・将棋はスポーツですか?」・・・と聞いたのです。
そのとたんクラス中のみんなが大声で笑いました。安藤君は真っ赤になり、机に顔を伏せてしまいました。・・・
その時でした。先生の割れんばかりの声が教室中に響いたです。「何がおかしい」
今まで一度も聞いたことのない声でした。大きな声でした。こんな先生を見るのははじめてでした。
教室の中は凍(こお)りついた様にしーんと静まりました。

しばらくすると先生は優しい声で「安藤、顔、上げてくれ。いい質問だぞ。どうしてそう思ったんだ?」
安藤君は机に顔を伏せたままでしたが、そのうちそっと顔を上げると小さな声で話しだしました。
「僕のうちは新聞をとってないんだけど、時々仕事の材料が新聞に包まれて届く事があるんです。僕は野球が
好きなので、そのくちゃくちゃの新聞を広げてスポーツ欄を見る事があるんですけど、そこに時々、将棋の事が
のっているんで・・・」・・・先生は安藤君の言葉をひとことも漏らすまいと、とても真剣に聞いていました。
そして安藤君が話し終えると優しい声で
「そうだな。新聞のスポーツ欄には確かに将棋が載っているな。スポーツというとグラウンドでやるものや体を動かすものだけと思っていたけど、もしかすると広い意味で競技という意味なのかもしれないな。今度調べておくからな。今日は、はっきり答えられなくて、すまん」と言って安藤君に頭を下げたのです。
僕は驚きました・・・先生が生徒に頭を下げて謝っていたのです。信じられませんでした。
けれども・・・・先生のその姿を見ているうちに、僕はなんだかへんな気持ちになってきました。
そして、今笑った気持ちは何だったのだろう?・・・と考えはじめていました。
そのうち、もしもこの質問を吉野君(仮名)がしていたらどうだったのだろう・・・・と思いました。
吉野君の家はお金持ちで 家庭教師がついているので勉強もとても良くできたのです。
お兄さんは大学に行っているので、吉野君も当然高校から大学まで行くことはまちがいありません。
その吉野くんがもしも同じ質問をしたなら・・・・
きっと僕も、クラスのみんなも笑うどころか「すごい質問だ!」と感心したに違いありません。
僕はその質問を笑ったのではなかった事に気づきました。僕達は安藤君を笑ったのです。
自分達より貧しく、勉強もおくれている安藤君が僕達をさしおいて先生に質問をしたことがなんだか
しゃくにさわる気持ちもどこかにあったのでしょう。僕達は安藤君を人間として下に見ていたのです。
それから何年もの年月が経ちました。僕達はいつのまにか大人になっていました。
日本は高度経済成長の時代に入り、皆、豊かな暮らしができるようになっていました。
やっとクラス会をする余裕もでき、中学を卒業してから初めてのクラス会が行われました。
僕はみんなに会える!と胸踊らせて、出かけてゆきました。大勢の中に安藤君もいました。
その姿を見たとたん、僕は昔の出来事が、心に突き刺さるように思い出されてきました。
そして、安藤君があれからどの様に生きてきたのか、とても気になりそばにゆき・・
「おい!元気だったか!」と話しかけたのです。
すると安藤君はとてもうれしそうな顔をしました。先生に会いたくて来たのだけれど、友達はほとんどいなかったので、誰と話せばよいのかわからずに静かに座っていた・・とそう言いました。
そして、お酒が入ったせいもあるのか、卒業してからの事をいろいろ話してくれました。
あれから家族3人で死にものぐるいで働き、今では工場も広くし、どうにか何人か雇える程になった
そうです。僕はその話を聞いて心の底からほっとしました。
そして「それは良かったな!それは本当に良かった」と言うと、安藤君は「何もかも原口先生のおかげだ」とあの日の事を話しだしたのです。
「あの時、先生、大きな声で・・何がおかしい・・と言っただろ。あの言葉が俺の心の奥に飛び込んできたんだ。・・安藤、お前の何がおかしい。何にもおかしくなんかないぞ。おまえは一生懸命生きているじゃないか。顔をあげろ・・とそう言ってくれた様な気がしたんだ。あの頃、家も貧しかったし、勉強もどんどんおくれてゆくし、友達もひとりもいなくて・・・俺はこのままどうなってしまうんだろう・・・と毎日不安でたまらなかった。・・・その上、あの日みんなに大声で笑われて・・・・もう、二度と出る事ができない暗い穴の中に落ちてしまったような気持ちだった・・・けど、原口先生が大声で俺を穴からひき上げてくれたんだ。先生は・・安藤おまえはどこもおかしくなんかないぞ・・と言って俺の人間としての尊厳を守ってくれたんだ。・・・・俺は原口先生に救われた・・・」
僕はその話を聞いているうちに、どうしてよいかわからないほど胸がいっぱいになりました。
そして、しばらくすると、あることに気づいたのです。
先生はあの時、安藤君の尊厳を守っただけではなかったのです。
安藤君を笑った僕達クラス全員の、人としての尊厳も守ってくれたのです。あの日先生は僕達に
「いいか、お前等人間としてこれ以下に堕ちるなよ。何がおかしいことか、何が恥ずかしいことか、それを間違えると、貧しい人間になるぞ」
と叫んでくれたのです。

僕は会場を見渡しました。・・・皆、いい顔をして楽しそうに話し合っていました。
きっとみんなの心の中に、今日まで何度も何度も、先生のあの日の声が響き続けていたに違いありません。
「人間としておかしい道を行くなよ」 ・・というその声に導かれて今日まで生きてこれたのです。
そして、今あんなにいい顔をしてここにいるのです。・・・・僕は改めて教師という仕事の偉大さを思いました。
先生のこの言葉は、これからも生涯、僕の心の中で聞こえ続けることでしょう。
中学一年生のあの日に出会ったこの出来事は、僕の人生の最大の宝となりました。
どんなことをしてもお金では買えない、人間としての本物の宝を先生は僕らにくださったのです。

先生!ありがとうございます。

原口 允(まこと・本名) 享年90才。2014年6月11日 天寿を全うす。(合掌)




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