おはなしかご
 

エッセイ集

エッセイ集
「流してもいい涙」

第一話

僕が小さい頃は男の子はみんな

「大きくなったら兵隊になるんだよ」

と言われて育った時代でした。
ですから転んで泣いたり、ケンカをして泣いて帰ってきたりすると

「男の子は泣くものではない」

と叱られました。明治生まれのおばあちゃんは特に厳しかったものです。
ある寒い日の事でした。炬燵に入りながらおばあちゃんの話を聞いていたのですが、その話が僕の心に
じ〜んとしみ込んできて、痛くもないし、悔しくもないし、悲しい話でもないのに心の奥から今まで一度も感じたことのない気持ちがこみ上げてきて、涙がこぼれそうになってしまったのです。
大変だ、泣いたら叱られる・・そう思ったので涙がこぼれないように目を大きく開いて一生懸命にこらえていたのですが、いつのまにか涙がぽろぽろとこぼれていたのです。ぼくは叱られると思い体を硬くしていました。
ところがどうしたわけか、おばあちゃんはやさしい顔で僕をじーと見ながら

「坊はいい子だ。坊はいい子だ」

と言ってくれたのです。おばあちゃんの目からも涙がこぼれていました。 ・・・・・ぼくはその時、流してもいい涙もあるんだ・・・と思いました。
ずいぶんと後になって・・・それが感動の涙だと言うことを知りました。
感動の涙は僕に生きる力を湧きたたせてくれました。心の汚れを洗い流してくれました。
・・・それから僕は、いい話に出会いたい!・・と本気で願ってきました。
そして・・・・長い年月に何度か出会った「いい話」から大きな力をもらいました。
「いい話」は僕の人生を喜ばせてくれて、幸せにしてくれました。今でも心にのこっています。
心にしみた話は生涯一緒に生き続けてくれています。
本当のことがそのままでも、物語の様な姿になっていても「いい話」というものは必ず
「人の心には暖かい情けがあるんだよ。人の心には強い力があるんだよ」と言うことを伝えてくれます。
そして、まだみんなの心の奥でねむっていたり、蓋をされ閉じ込められているかもしれない、暖かい気持や
優しい気持、勇気や強さが「いい話」に出会う事で生まれ出てくるのだと言う事にはっきり気づきました。
その「いい話」がどこにあるのか?「いい話」それは、本気で、心の耳を澄ませていると必ず「ここだよ〜」
と、どこかで呼ぶ声が聞こえてくるはずです。


第二話


「ただいま!」

玄関で学校から帰ってきた娘の声がした。いつもの通り元気な声だ。そしてランドセルの
音を立てながら、居間にいくと鏡の前に座った。そしてしばらく鏡に映った自分の顔をじーと見ていたが
そのうちハンカチをぬらしてひたいから頬にかけて何度もふいている。・・・・・いつものことだった。
私は胸がしめつけられ涙がこぼれてきた。6年前に私達の所にやってきた赤ちゃんの左まぶたから頬にかけて青いアザがあった。病院で診てもらうと

「これは治りません。一生このアザは消えません」

と、いともかんたんに言うと、もうそれ以上は何を言ってもとりあってくれなかった。
何軒病院をまわったことか・・答えはどこも同じだった。

「この子のアザは一生消えないんだ・・・」

そう思うと、たまらなくなり、ある日、私は顔の左側に青いシャドーをべったりつけ町を歩いてみた。

「ジロジロ」「ヒソヒソ」

私に注がれるいくつもの視線を痛いほどあびながら・・・・・
さぁ、見るがいい、見たいだけ見るがいい・・・あの子はこれから先、この視線を何度も何度もあびるのだ。
辛いだろう。苦しいだろう。どんなにか悲しいだろう・・・かわってあげたい・・・
ゆきちゃん、辛い時は私に当たるんだよ。苦しい時はお母さんも一緒に苦しむからね。悲しい時は一緒に
泣こう・・・・・心の中でそう叫びながら夕暮れまで歩き続けた。
アザは無情にも成長とともにどんどん大きくなっていった。
今日こそ話そう。ゆき代の顔のアザはどんなにふいても消えないのだ・・と言う事を・・
その晩、私は娘にアザの神様の話をした。

「ゆきちゃん。お空の上にね、生まれてくる赤ちゃんの何人かにアザをつけなくてはいけないお仕事のアザの神様がいてね。その神様はその仕事がいやでいやで偉い神様に「どうしてアザをつけなくてはいけないのですか?」って聞いたんだって。」

すると偉い神様は

「赤ちゃんにはやさしいお父さんとお母さんと暮らせる幸せな赤ちゃんと、そうでないかわいそうな赤ちやんがいるんだよ。そのかわいそうな赤ちゃんの悲しみを少しだけ幸せな赤ちゃんに持っていってもらう事で、かわいそうな赤ちゃんが少しだけ幸せになれるんだ。それがこのアザなんだよ」

それを聞いてアザの神様は

「それならそのアザは全部私の体につけます」

と言って体中にアザをつけたんだって。
それでもまだ、かわいそうな赤ちゃんが何人かのこっていてね。どうしても何人かの幸せな赤ちゃんに
アザをつけなければならなかったんだって。その一人がゆきちゃんだったんだよ」
娘はじーと聞いていた。・・私は娘のその顔をみつめながらこみ上げてくる涙を必死にこらえて思い切って言った

「だからね。ゆきちゃんのアザは、そのかわいそうな赤ちゃんの為にずーとここにあるんだよ。大きくなってもずーとここにあるんだよ」

そう言ったとたん私は涙が溢れて来た。・・・娘の目からも涙がぽろぽろこぼれていた。
泣くがいい。おもいっきり泣くがいい・・こんな幼い子に人生の重みも深さもわかるもんか。泣くがいいこれからも何度も何度も私の胸に顔をうずめて泣くがいい。私はその為に生きていこう。心の中でそう叫びながら、私は娘を抱きしめた。

「ゆきちゃん。アザをもらった赤ちゃんはその代わりに強い心とやさしい心を持てるようになるんだって。そしてね、ゆきちゃんが笑った時だけどこかにいるそのかわいそうな赤ちゃんが楽しい気持になれるんだって」

・・・その晩、私は娘が声をあげて笑う話をいくつもいくつも話した。・・・
娘は泣きながら笑っていた。・・・・・それ以来、娘の口からアザのことは一度も聞いたことはなかった。
友達に

「おばけ・おばけ」

といわれていたことも知っている。他にもいろいろな事があった。けれども娘は
私が悲しむと思って何も言わなかった。・・・一度だけスーパーでアルバイトしていた時

「ママ、今日アザのある男の子が買い物に来たよ。あの子も私と同じ人生だね。いじめられないといいな」

とポッンと言った事がある。それを聞いて私は何年も前に涙でぐしゅぐしゅになりながら必死に話した「アザの神様」の話が本当になった!と思った。どんなに辛くてもそれをひきうける強さを持てていて、それでいて他の人の悲しみに寄り添えるやさしさを持つことができていたのだ。・・・・・年月が経ち今ではあの子は一児の母となった。良き伴侶にも
恵まれ幸せに暮らしている。・・30年前に私達の所にやってきた小さな赤ちゃん。その赤ちやんが持ってきたアザ・・そのアザが一体なんだったのか・・今、私は、はっきりと知った。あの子がアザとともに懸命に生きるその姿に、私は人間としてどれほどのことを学ばせてもらったか。人は誰もみな、授かった天命の中を
懸命に生きたその時、心の大地から幸福の芽が発芽し、大空に向かってぐんぐんぐんぐんのびてゆくのだ
そして、あの子を笑わせようと毎晩話したその話から、私自身がどれほど楽しさと、喜びと、力をもらえたか計り知れない。私の大地からもどれほどの幸福の芽が発芽したことか!大人が子どもに話をする・・という
ことは大人が自分の心に話しかけることなのだ。「いい話・心が喜ぶ話」は悲しみも、苦しみも、淋しさも
何もかもを最高の腐葉土としてくれるのだ。「ねぇお話して」と大人を見上げる子どもがそばにいてくれた
こと、そして話をさせてもらえた事、それがどんなにかどんなにか大きな幸せだったかを今、心から思う。




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