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2021年 いい話「悲しみを燃やす薪」


♪緑の丘の赤い屋根〜♪で始まる「鐘の鳴る丘」の歌を聞いたのは何十年前だろうか?
かなりの年月が経っている。だが、まるで昨日のように心の中で聞こえているのだ。
昨年の朝ドラで聞いたからではない。三年程前に、静岡の小さな放送局に「人生を導いた音楽」と言うタイトルで、生きる道を伴走してくれた音楽を紹介してほしいと頼まれ、番組に出る機会があった。その時、瞬時に心の中から聞こえてきたのは「鐘の鳴る丘」だった。
幼い頃はメロディーに誘われ、元気な声で歌っていたのだろう。
「♪とう〜さ〜ん〜 かあさん〜いないけど〜♪」と言う歌詞もなんとも楽しそうに歌っていたのだろう。


・・やがて時は経ち、自分が親という人生を生き始めた時、この歌がどんな歌であるのかをはっきりと知った。・・・自分には「父さん母さん」がいたのだ。当たり前のようにいたのだ。
そして、自分が「母さん」になった時、我が子には当たり前のように親がいたのだ。
その全く当たり前の「親」がいない・・・それがどれほどの事であるのか・・体が震えた。


ぼんやりとうかんでくる昔の景色の中に、家がなくコモ(藁のござ)に棒を指し屋根にして暮らしている人達がいた事を思い出した。そこには「浮浪児の○ちゃん」と呼ばれていた姉妹がいて、ぼろぼろの服を着て、何かを拾って食べていた。・・・・あの子達は鐘の鳴る丘の様な家にゆけたのだろうか?・・・あの日から、今までどうやって生きてきたのだろうか・・
抱えきれないほどの、寂しさ、悲しさ、不安で身を包まれ、どうやって生きてきたのだろうか?


屋根があることすらかなりの幸運だったあの焼け跡から、誰もが皆、泣きながらボロボロの服で破れた靴で、風呂になどめったに入れない日々を、無我夢中で生きてきたのだ。
・・・そして、今・・見えない火で料理ができる。薪で風呂を沸かさなくてもいい。
「ラジオが一軒の家に一台ずつある日がくるなど夢の又夢だ」と言っていた叔父はもういないが今は一人が一台ずつ電話を持てている。しかもそれはコード(電話線)につながれていないで、ポケットに入る小ささで、外に持ち運べるどころか、いつでもどこからでも、瞬時に遙か彼方の外国とも話ができる
・・・・その事を知ったら、叔父は卒倒するだろう。
・・あの焼け野原から、心も体もぼろぼろになりながら、凄絶な現実を素手で生きぬき、今を創り上げた彼等にただただ頭が下がる。下げた頭があげられない。・・
そして・・・いつのまにか「鐘の鳴る丘」の歌が口ずさめなくなっていた。


ところが不思議なことに「生きる道を伴走してくれた音楽」と言われた時に、心の中から真っ先にこの歌が聞こえてきたのだ。・・・・そしてその時はっきりと気づいたのだ。
無邪気に、何もわからないままに歌っていたと思っていたあの歌詞・・・
「♪とう〜さ〜ん〜かあさん〜いないけど〜♪」のこの言葉は、私の心の奥にしみ込み・・・何度か、どうしてよいかわからない暗闇の底に落ちてゆきそうになる度に、この言葉が私を立ち上がらせてくれていたのだ。「父さんも母さんもいなくて生きてきた人達がいるんだ」その凄さが、彼等のまさに本物のバイタル(生きる力)がその言葉と共に私の心に届いていたのだ。
何十年も経った今、血縁でもない、会ったこともない全くの他者に生きる力が届いていたのだ。
音楽とは言葉とはなんとすごいものだろう!!
すごい先輩達がいたのだ! 心から誇りに思う!万感のありがとうを心の中で叫んだ。


「♪ここは〜お国を何百里〜」と言う歌も聞こえてきた。後に「戦友」と言う題名の歌であることを知るのだが・・盲目の父が幼い私を膝に抱き、繰り返し繰り返し歌っていた歌だ。


聞かされた子は、題名も知らず、意味もわからぬまま、かなり長い歌詞を最後まで、すらすらと歌えたのを覚えている。それほど何度も聞かされていたのだ。
なぜ父は童謡でなくこの歌を歌ったのだろうか?そのことを大人になってからずいぶんと考えた。


父は奇跡的に戦地から生還できたのだが、帰れなかった戦友は何人もいた。
その人達の為にも、生還できた者が築かなければいけない平和への道があったのだが、残念な事に父は病に見舞われ、全盲となってしまい、何もできなかった・・・・
その申し訳ない思いは、言葉になどできるものではなかったのだろう。
だが、今、自分の膝には愛おしい無邪気な我が子がいる。時々そのままスヤスヤと眠る事もある。
そんな時父は、我が子を抱くことのできなかった亡き友への思いで、胸がいっぱいになるのだろう。
遠くに向かって・・・見えない目を閉じ、悲しげに歌っていた。
何度も何度も歌っていた。・・この歌以外歌わなかった。歌えなかったのだろう。


だが不思議にこれほど悲しい歌なのに、聞かされていた子は、年月が経つにつれ、その歌声の底から聞こえてくる何かを聞き取ったのだ。
それは・・・やはり、自分ではどうすることもできない運命を、命がけで生きねばならなかった大人達が、子である私達に投げた万感のバトンの音だった。
平和へ向かって走れという、バトンの音だった。
絶対に渡したかったバトンである。絶対に受け取らねばならないバトンであった。




先日、ある番組に森進一さんと息子さん(三男)が出演していた。番組の後半に親子で別々に「襟裳岬」の歌を歌う事になった。最初に森進一さんが歌い、その次に息子さんが歌った。
「北の街では、もう悲しみを暖炉で燃やしはじめてるらしい・・・」で始まる歌だ。


「悲しみを燃やす薪が襟裳岬にはあるんだ」・・・・・・・・


今、日本は戦いの弾丸は飛んでこない。だが多くの人がinner・war(インナーウォ−)心の中の戦争とそして環境との戦いをしている。
「父さん母さんいないけど」ではなく「父さん母さんいるけれど」一緒に暮らせない子ども達がいる。
なぜなのか?・・心の中に戦いがあり、父さんも母さんも子どもと一緒に暮らすことができないのだ。
その子達の心の中には、どれほどの悲しみがあるのだろう。
その悲しみを「襟裳岬の薪」で燃やしてあげたい。子どもの心にも苦しみや不安や悲しみがある。
だが燃やせる薪は襟裳岬まで行かなければないのだろうか? 薪とは何なのだろうか?・


染織家志村ふくみさんは言う。
「人の心を、苦しみや不安悲しみ、寂しさから救うのは「美」です。
美しさと喜びは何もかもを生きる力に変えてゆくのです」と。


悲しみを燃やしてくれる薪とは・・・そうだ!!心に届く「楽しさとやさしさと美しさ」なのだ。


強靱な人生を生き抜いた、大きな先人、ネルソン・マンデラ氏は言う。


「学ぶ事は、自分の心の中の恐怖や不安や苦しみを克服してゆくことである。
真価ある学びは必ず苦しみを乗り越えさせてくれる。大きな生きる喜びに辿り着ける。
厳しい現実の暗闇の中で、必死に目を懲らし、耳を澄ませ、生きる力を探し続けた心の力は強靱であり、それは自分だけでなく他者をも幸せに向かわせてゆく力をもつのだ。」


そうだったのだ。私の心を救ってくれた彼等の生きる力は、大きな建物の有名な学び舎ではなく厳しい現実の日々の中で、絶望に近い不安の中で、必死に見つけた真価ある学びだったのだ。
一人の人間が絶望に近い不安の中を懸命に生きることにより、実に偉大な生きる力の遺産が遺せるのだ。


世界中の人達が、今、大きな不安の中を生きている。その最中でもかつて、オランダの母親達が言った言葉・・・「私達はどんな時でも、子ども達に母国語で心楽しい、美しい物語りを届け続けます。
それが私達の大声での戦争反対です」・・と同じ思いで、子供達にお話を届けようとしている多くの方がいる。その方々から「画面を通して文化を届けたいのですが版権のことがあり自由にできません。おはなしかごの人形やお話を届けさせていただけませんか?」と問い合わせが何件もある。
(日本はもちろん・ドイツ・アメリカ・中国他・からも)
私は即座に「もちろんOK です! おはなしかごのすべての作品の版権はおはなしかごですから」と答える。でもその後に必ず「美しく届けてください。心に届く届け方をしてください」とすでにご覧になれる動画を見ていただくように伝える。


そうなのだ。襟裳岬まで行かなくても「おはなしかごの籠の中」には薪があるのだ。
200 種以上の「楽しい薪!暖かい薪!美しい薪!」があるのだ。しかも誰の版権借用をしなくてもその薪を子ども達のところへ届けられるのだ。おはなしかごは世界で一つしかない「心の薪屋」なのだ。


各国にも絵本の出版社は数え切れない程あるが(手袋人形・手遊び・ハンカチあそび・お手玉遊び・持たなくて読める中型絵本・パネルシアター・ペープサート・絵話お話他)すべてオリジナルの200 種以上の薪があるのは、世界中ここだけなのだ。
そのことにはっきりと気づいた昨年だった。


そして、その薪の燃やし方は、学ぶに値するクオリティーがある。まさに真価ある学びだ。
おはなしかごの薪は「ユニクロでパリコレ(パリコレクション)」と言われている。
つまり実に簡単で、それでいてクオリティーが高い!と言うことだ。
学ぶ事はあなた自身の不安や苦しみを、必ず生きる力に変えてくれる。
「美しい届け方・魔法の箒の乗り方の呪文」の授業をオンラインで届けられるのは今はここしかない。




森進一さんの歌も素晴らしかったが、息子さんの「襟裳岬」は新しい光に輝いていた!
そうなのだ。偉大な先輩達が懸命に生きてきたその道を、次の人達が歩いて行くのだ。


日本中の図書館員がみんな、すばらしい!ストーリーテラーになることに、全人生を賭けられた大先輩がおられる。・・・・その方は今、全力の戦いを終えて、大きな舞台を下りられた。
だが、今! おはなしかごはその大先輩の後を全力で走っている。


かつては「子供の為の文化」などどこにもなかった。大人の為の芝居小屋は時々やってきたが・・
やがて兵隊さんの服を着た紙芝居のおじさん達が現れた。だが経済の発展とともにいなくなった。
そしてしばらくすると母親達が「親子劇場」を組織し「プロの劇団」が登場した。保育園や幼稚園も劇団を呼ぶようになった。だがこれもまた、経費の高額さや、音楽の音が保育園他の場では大きすぎる事や、内容が乳幼児向けではないことなどから、消えていったと言っても過言でない。
その頃から、子どものすぐそばにいる大人達が、自らの手で文化を届け始めたのだ。
学校の朝の時間に、地域の集まりに、支援センターに・・現れるのは、市井の人となった。


おはなしかごはこの時代が来ることをかなり早くから予測していた、と言うより心より願っていた。
子どものすぐそばにいる人が文化力を持つことを本気で願い、走り始めていたのだ。
(車を使わずに一人で運べる用具)や(大きな人形を作り、何人もで何日も練習を重ねるのではなく、ひとりでできる小さな劇場)の実現に向ってきたのだ。
それだけではない。おはなしかごの作品は障害を生きる(聾唖の子ども達・視覚障害の子ども達・発達障害の子ども達・・そしてお年寄りの方々他)のあらゆる場の人達への薪でもあるのだ。





襟裳岬の歌は「♪襟裳の春は何もない春です〜♪」で終わる。 だが子ども達の心の春には「楽しいお話がある!」 今、みんなで大声で歌う歌は!これだ↓ 「森のくまさん」のメロディーで歌おう!



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