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「心がしがみつくもの」

今年は午年である。午年は12支の7番目の干支であり、実に演技の良い年といわれていいる。
この午年に仏像を開帳する寺も少なくない。
この「うま」という響きを持つ言葉は意外と多い。
「旨い」「上手い」「うまくいく」「倦まず(飽きずに)」「産まる」等。
どれも皆、心地よい状態を表す言葉だから今年はきっといろいろなことが「うまくいく」はずだ。
だが今年だけでなく人生の全てがうまくゆきたいものである。
そこで午年に因んで「人生が上手く行く方法」を一考してみよう。
何かを解明するには、それがどのようなもので構成されているかを具(つぶさ)に調べることから始めるものなので、まず「何かがうまくいっている状態」はどの様であるかをみてみよう。

物事がうまくいっている時、人は実に良い顔をしている。
「良い顔」には不安も恐怖も怯えもない。そして他者に対する攻撃の気や、抑圧感も放たれていない。むろん媚もない。生き生きとした気力と人に対するやさしさがあふれている。
なぜなのか?
それは「人の心」というものは、不安や恐怖や抑圧がなければ「自分の本当の気持ち」というものが安心して生まれ、のびやかにその姿を現してくれるからだ。
「本当の気持ち」が生まれてくれば、それからの物事というのは必ずその気持ちに沿って実現してゆくものである。
つまり、真の自己表現の喜びに包まれている時、人は実によい顔をするのだ。
人生でどれ程の「実に良い顔」に出会えるか「人生の真のおいしさ、旨み」がかかっているといっても過言ではない。
鏡で見る自分自身の「実に良い顔」そして家族や仲間の「実に良い顔」、それに出会いたいが為に人は日々、切磋琢磨しているのである。
ではいったいどうしたらこの「実に良い顔」に出会えるのだろうか?それは簡単である。
不安や恐怖や抑圧をとりのぞけばよいのだ。それさえとりのぞけば、その下に押し込められている「本当の気持ち」が生まれてくるのだ。
生まれてくればしめたもの。「声と心はウソはつけない」と言うように、心はその真の気持ちでしか動かないからだ。
あとは着々とその気持ちに沿って自己が実現してゆくというわけだ。
だが問題は、この不安達が簡単にとりのぞけるかどうかということだ。彼等は黙ってどこかにいってくれるような代物ではない。
昔話にもあるように、住みついてしまった貧乏神はなかなか出て行ってはくれないように、どこかに言ってもらうのは一朝一夕のことではない。
昔話の中ではどのようにしたかというと、まず貧乏神に対抗する福の神を探してきて相撲をさせたのだ。
そして福の源である「打出の小槌」を手に入れたのである。
そうなのだ!
この不安達と相撲をとってくれるものを心のなかに招き入れればよいのだ。
それはいったい何かと言うと?
「貧」の反対が「福」であったように「不安」の反対の「安心」、恐怖の反対の恐ろしくないもの、やさしくて心地よいもの、怯えなくてすむもの、つまり攻撃や抑圧をしてこないもの、心を刺してこないもの、を探してくるのだ。この探し方の「上手」さに人生の明暗がかかっているというわけだ。
安心できて、やわらかくて、気持ちが良いもの、そ〜っと包んでくれるもの・・・。
そう、毛布やぬいぐるみのようなものである。
幼子がぬいぐるみを抱いたり、寝るときに毛布をしっかりつかんでいるのは、まさにこの不安をとりのぞく、実に賢い行為なのである。
「眠る」という行為は生き物にとって全身を弛緩させた、全く無防備な状態になることである。
この状態はもちろん最も安心のできる心の巣穴で行われるべきことである。
だが幼子にとっては自分の家の布団で眠るのであっても、何かしっかり自分を守ってくれるものにしがみつきたくなるのだろう。
この「しがみつく」ということについて津守房江さんは「育てる心の旅」の中で次のように書いている。


こどもがしっかりとぬいぐるみを持っているとき、それは「持っている」のではなく「しがみついている」のだろうと思う。自分の体に何かをしっかりと抱え込んでいる時、幼子は自分が何かに守られ、強められたように感じるだろう。そして手放したときにはその空虚さに崩れてしまうだろう。子どもというものはそれほど弱い、現実感の薄い自我なのである。


更にこんな風にも書いている。


家庭指導グループで、新しく入った小さな男の子が、自分より大きな子に出会うと、怖がって部屋から逃げ出していった。「あっち、あっち」と言って逃げるのについていくと、とうとう一駅先まで行ってしまったことがある。
私達はそれからはどうにかその子が逃げるのではなくこの場で過ごせるように、その子をおんぶすることにした。だがその子はしがみつかない。しがみつかない子を腰をまげて、おんぶして過ごした後で、私達は、子どもが怖いことに出会ったとき、しがみつくことがどんなに大切かを知った。


子どもだけではない。「心」というものをもって生きるものは、誰でも皆、怖いものに出会ったとき、やわらかいものに包まれなければ生きてゆけないのだ。

長男の子が10ヶ月になった頃、わが家に母親と二人で遊びに来たことがある。
その時、私達がどんなに手をさしだしても母親にしっかりとしがみついて離れなかった。
母親がミルクを用意するためにわずか何歩かしかはなれていない台所に立っただけでも、まさに「この世の終わり」というように全身で絶叫のように泣き喚いていた。
1580gという未熟な状態で産まれたこの子にとっては、普通の子の何倍も言葉にならない不安が体内にあったのだろう。
人の子というものは子宮の中からゆっくりと安らかに育ち、そして生まれても、母なる肌にしっかりとしがみつき、体も心も深い安心で満たされたとき、はじめて自分の足で立てるのだろう。
21歳という若さで思いもかけず体内に宿った命を、若い二人がどれ程の不安で迎えたかは言うまでもない。
その不安が体内の命に丸ごと伝わったことも言うまでもない。
その上、体まで未熟な姿でこの世に生まれ出てしまったその幼子が、10ヶ月という時を経ても、何か、とてつもない不安の中で、ただひとつの命綱である母親に必死にしがみつくのは当然のことである。私はその様子をながめながら心の中で叫んでいた。
「それでいいのだ。しっかりしがみつくがいい。いつまでも心ゆくまでしがみつくがいい。それがやがて心の体温になってゆくのだ。しがみつけ、しがみつけ、思いっきりしがみつけ!」

やがて時は経ち、幼子はもう5歳になった。
いつのまにか母親がいなくても、いく晩もわが家に泊まれるようになった。
心ゆくまで母の胸で暖まったのであろう。そしてその母は、いつでも振り返ればやさしいまなざしで自分を見つめていてくれることを心から信じているのだろう。
若い母親はは幼子にしがみつかれたことで、どんなにか大変な日々であったであろうと思う。
同年の友等はまだ街で若さを謳歌しているというのに。
だが不思議なことに彼女は今「実に良い顔」をしているのだ。
幼子にしがみつかれた日々は、若い彼女にとって大変でなかったとは決して言えまい。
時折、歯をくいしばる横顔を垣間見たことも少なくない。
だが、なぜ今、彼女は「実に良い顔」をしているのだろうか?
それはしがみつく方も、しがみつかれた方も、紛れもなく人肌のやわらかさにふれていたからだ。
そしてしがみつかれた方は、弱く幼い者にしがみつかれることで、いやが応にも人生の地にしっかりと立たねばならなかったのだ。
そうなのだ!人というものは誰かにしがみついたり、つかれたりすることで、はじめて自分の存在の価値と意義を、そして他者の存在の大切さを体の芯に刻み込んでゆけるのだ。
この5年間で、若い一人のその母親は「人として生きてゆく」ということの深さと、すばらしさを知ることができたのであろう。
そして彼女達は、むろんこれからも人生の様々な季節に、その季節だけの何かにしがみつき、大人に向かって成熟してゆくのだろう。
何を選び、どの様にしがみつくのであろうか?楽しみに見つめてみよう、などと彼女達のこれからに思いを馳せながら、ふと私自身は一体今まで、何にしがみついてきたのであろうかと思い返してみた。
津守さんはそのことをこんな風に書いている。


何かにしがみつき、自分を強めようとするのは幼子だけではない。大人も同じように自分でも気づかないうちに、何かにしっかりとしがみついているものである。お金であったり、地位であったり、権力であったり。そしてそれを守る為に武器を持ってしまうことも少なくない。


そうなのだ。大切なのは「何にしがみつくか」ということなのだ。
私は31歳の時、子どもの幼稚園の講演会で「津守房江」なる存在に出会った。
どの講師も「人の心を大切にせよ」と説くことに変わりはなかったが、なぜか彼女の、ひと言ひと言は私の全身に砂漠が水を吸い込むように「ジュー!」と音をたててしみ込んでいった。
それから20数年、私は彼女の言葉にしっかりとしがみついてここまで生きてきた。
そうなのだ!私がしがみついていたのは「人の心のふれ方」「生きるということの観性、感性」なのだ。
自分より大きな存在、深い思慮、暖かい思い、それらをこの人生の途上で探し、しっかりとしがみつくことなのだ。
そのことがいつの間にか不安も恐怖も怯えも、抑圧も吹き飛ばしてくれるのだ。

そうだ!今年も、どでかい人間を見つけよう!深い思いに出会えるところへゆこう!暖かく美しいものを見つめてゆこう!
そして鏡に映る私の「実に良い顔」に出会い、家族や社会の子供達の「実に良い顔」に出会うため、深く大きな、暖かくて楽しい、そして心が洗われるような清らかで美しい話を一生懸命に探し、皆に届けてゆこう!


今年は午年だ!うまくゆくぞ!GO!!



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