昭和二十年六月六日十九時、静岡から秋田へ再疎開する学童をのせた臨時列車は沼津駅を
発車しました。
すでに焼野と化した東京を通過、宇都宮までは止まらずに走る汽車です。
東京のどこの駅でもいいから止まってほしいという子どもらの願いはとどかず、あきらめて
うとうとと仮眠にはいったころ、列車は突然止まりました。灯火管制のうす暗いホームの柱に「しながは」という白い文字がぼんやりとうかんでいました。
焼跡の防空壕に残っていた父母が役所や駅へ頼みこんで、ねばりぬいて、急遽、品川駅へ
十分間だけ停車することになったのでした。ホームには、父母が溢れて待っていました。
しかし、いくつもの学校がいっしょにのっている汽車です。どのあたりに我が子の学校が
のっているのか、連絡はとれておりません。学校の名を、我が子の名を呼びながら、暗い
ホームを右へ左へと走りまわる人たちでした。
その中に四年生のTくんのご両親もまじっていたのです。
限られた時間なのだから、もし会えなかったら困る……お父さんはうしろから、お母さんは前のほうからと、わかれて我が子をさがしました。
Tくんののった車両は最後部だったから、お父さんはすぐさがせました。お母さんをさがしにいきたい思いと、少しでも我が子のそばにいてやりたい願いとで、お父さんの心は乱れたと
いいます。
前のほうから順に学校の名をたしかめながらきたお母さんに、ぶっつかっただれかが
「その学校はもっと前のほうですよ」といって走りぬけました。
会いたい一心で、お母さんは前へうしろへとゆきつもどりつかけまわりました。
もう発車のベルがなっています。列車は走りだしました。お母さんは、水道の水をいれてきた四合びんを、目の前の見知らぬ子におしつけました。
「元気でがんばるのよ」そういって我が子がのっているはずの汽車を見送ったのです。
発車の合図をききながら、お父さんはTくんにいいました。
「お父さんも、お母さんもどうかなってしまったとき、このお金をもって生きのびるんだよ」そういうと百円札を小さくたたんで、Tくんのお守り袋へそっと入れてくれたのでした。
百円といえばお父さんの給料より多い額だったといいます。
なんともせつなくなるわかれでした。
親と子が再びこんなわかれをする世の中にしてはならないと思います。
しっかりと歯止めをかけていかなければと、そう思うのです。
(メディアパル出版)